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カナダの首都オタワに一本の橋がかかっている
その橋を渡ると、対岸にハルという町があり
そこはもうケベック州で、フランス語圏
Museum of Civilization-
ハルにはカナダの民族博物館がある
そこに1992年の3月、誘われてでかけた
まだまだ雪と氷の残るカナダの3月
博物館の中にはトーテムポールや木製のボート、素朴な装束、工芸品が飾られていた
トーテムポールの影にスピーカーが置いてあって
スピーカーからカナダの先住民たちが話していた言語が流れていた
私をそこへ誘ったのは
カナダで創作ダンスをしている日本人
博物館の中でダンスをするからよかったら見においでと言われた
トロントからVIA鉄道に乗って出かけた
トロントからオタワまで4時間半の鉄道の旅
トーテムポールにぐるりと囲まれた楕円形のホールで
その人はうっとりとダンスを踊る
照明を落とした真っ暗なホールで
真っ赤なスポットライトだけで5人が踊るピアソラ
オタワの町で皆で一緒に食事をした
懐かしい友人、人なつっこい初対面のダンサーたち
ダンスをする人たちは、話をする時の体の距離がすごく近い
顔や体は、観客に見せるため日々鍛えているので
近くで見せることにためらいがない
感情も豊か、表情も豊か
魅力的な人たち
真っ白に凍る眼下の河川
雪に覆われた橋の向こうはケベック州
友人は、その橋を渡って向こう側に帰っていった
トロント空港に初めて足をつけた時
出迎えに来てくれた知人夫妻とその友人
空港の両開きのガラスの扉を
2人のおじさんがばんと開けてくれた
「ようこそカナダへ」
私はとても温かくカナダに迎え入れられた
1991年のカナダの初夏7月
オンタリオ湖にぷかぷか浮ぶ
知人夫妻所有のヨットの上で寝起きしていた
知人夫妻のヨットは
船内に2つの船室があって2〜3人が寝泊まりできる
ひとつの家のようなものだった
夏の間、夫妻のヨットは
直径4kmの小さなトロント島の運河に停留させておいて
ほとんど毎日ヨットの上で暮らしていた
その生活にしばらく参加することにした
することも特になく
朝起きて、焼いたトマトとベーコンと卵2つの朝食を食べ
フェリーで本島から新聞を運んでくる友人がくれば
新聞の求人欄に○をつけて過ごす
昼はヨットクラブのカフェで食事をとり
2階のデッキからヨットレースを見下ろし
夜になれば1階の遊技場で
弾ける人がジャズピアノを弾き散らしたり
ダーツやヨット話に興じたりして時間を過ごす
時間はゆっくりゆっくり流れていた
運河付近を歩いていると
私を見つけてがばっと手を振って笑顔で
「ボンザイ!」と言ってくれる好青年がいた
「万歳」か「盆栽」どちらなのかはっきりとはわからなかったけれど
今でも彼のことは大好きで、よく思い出す
湖開きのイベントで
ヨットクラブ所有の大きな船が祝典に参加した
乗っているのはクラブの役員達
その船の上に真っ白なシャツとパンツに
ひときわ色鮮やかな水色のジャケットを羽織った黒人女性が乗っていた
白人ばかりのヨットクラブで、とても大切にされていた女性だった
船の上から彼女がにっこり笑って
島で唯一人の小さなアジア人の私に
ウィンクを送ってくれた
ウィンク一つにこめられたものは
あたたかい「ガンバレ」
彼女の大きなやさしさが伝わってきた
カナダで出会った人たちのWelcomeは
しっかりと大きくて
少しもさみしいと思う時間がなかった
いつもあたたかい微笑みをありがとう
いまでもあなたたちが大好きで
忘れられない
ジュリアス・シーザー・ヤコブ?
偽名だ。ぜったい偽名だ。
という私の疑念のもと
70歳のこのユダヤ人のおじいちゃんに日本語を教えることになったのは
15年も前のカナダでの出来事
ユダヤ人の歴史や背景については
決して詳しくはないのだけれど
知人にユダヤ人が何人かいて
揃いもそろって絵に描いたように頑固で
プライドは崖の上にそびえたっている
ジュリアス・シーザーは、古代ローマの偉い人
旧約聖書ではユダヤ人は皆ヤコブの子孫であるという
ある日私の勤務先を訪れた
ジュリアス・シーザー・ヤコブ爺さんは
眼鏡の奥でユダヤ人独特の目をぎらぎら輝かせて
日本語を学びたいと思った動機をこう語った
「私はね、ヨーロッパのすべての言語が理解できるんだ。
ブルガリア語もハンガリー語もギリシャ語も全てだ。
だがね、日本語というものを最近よく耳にするのだが
まったく理解できないのだよ。それがたいへん耳障りなんだ。
イライラするんだよ。なぜこの私が理解できない言語があるのだ!」
そう言った次の瞬間、ジュリアス・シーザー・ヤコブ爺さんは
事務所の電話の受話器をとって誰かに電話をかけ始めた
私が同僚と顔を見合わせて唖然としている間も
ジュリアス・シーザー・ヤコブ爺さんは延々と電話を続けた
やがて電話を切ってこう言った
「どうかね?私のブルガリア語は?」
こうしてジュリアス・シーザー・ヤコブ爺さんに
日本語初級コースを教えることになった
ジュリアス・シーザー・ヤコブ爺さんは
Wの文字を見ると「ヴァ」と発音する
ドイツ語系の訛りの持ち主
レッスン1の「わたし」と「あなた」でつまづいた
「WATASHI WA SEITO DESU.」 -I am a student.
ヴぁたしヴぁ、せいとです。
ジュリアスさん、日本語では「WA」は「わ」と読みますよ。
もう一度読んでみましょう。
WAは「わ」なのだね、わかったとも。やってみよう。
わたしヴぁ、せいとです。
「わたし」のあとの「WA」も「わ」と読みますよ。
もう一度読んでみましょう。
わたしのあとの「WA」も「わ」なのだな、わかったとも。やってみよう。
ヴぁたしわ、せいとです。
と、このようにレッスンは進んでいった。
とにかくやんちゃでやんちゃで
カレンダーの読み方を「ついたち」「ふつか」「みっか」と教えたら
「この無駄な活用はなんのためにあるのだ?
カレンダーを読む時以外にこの単語は使うのか?
ヨーロッパの言語ではこのような理不尽な活用はしない!
私は日本語で日付の活用を覚えることを永久に放棄する!」
と叫び
それでも私が「ビジネスで予定の交渉ができないと困りますよね」
と説得したら
しぶしぶ覚え始めた
「ふつか、フツカ、フッツサカー、Foot Soccer,
よし。ふつかはFoot Soccerと憶えれば簡単だ。ふつか、みっか。
Foot Soccerは、それで何日のことだったかな?」
などなど、今思い出しても漫才のようだ
ジュリアス・シーザー・ヤコブ爺さんは
レッスン毎にプレゼントを抱えてやってきた
あるときはチョコレート、あるときは造花のアレンジメントバスケット
あるときはカナダの水鳥のプリントTシャツ
そうして20回の初級コースが終了し
ジュリアス・シーザー・ヤコブ爺さんは
日本語という言語の存在を自分の中に許し
教室から去っていった
15年経って
我が家のタンスの引出しを開けると
ジュリアス・シーザー・ヤコブ爺さんがくれた
カナダのプリントTシャツがぴょこんと顔を出す
頑固で我が強くて
納得できないことには駄々をこねて大暴れして
でもプレゼントを持って教室に入ってくる時は嬉しそうだった
いつのまにか
人のタンスの中にいつまでも存在してしまうような
そんなおじいちゃんだったのだ
そしてカナダのプリントTシャツは
何回着まわして、何回洗濯機でまわそうとも
丈夫でへこたれず
今年の夏も、元気に我が家のベランダで風にはためくだろう
マレーシアに小旅行をした時
市街地から5km離れたホテルに帰るのに
タクシーを拾おうとして手を挙げた
停まってくれたタクシーの後部座席には
女の人と3人の子ども
タクシーの運転手がにこにこして
「仕事が終わって、家族とドライブしてたんだけど、乗ってく?」と言った
乗せていただいた上に運賃も支払った
トロントの激安よろず品小売店で
品物を手にレジ待ちをしていた
私の前に5,6人、私の後ろにも長蛇の列
ようやく私の番になった時
レジのお姉ちゃんが
「こんにちは、調子はどう?いいお天気よね。あら、いい色の布を選んだわね、これはお買い得なのよー」
と大変ゆったりした口調で話しかけてきた
なぜ長蛇の列ができていたのか理解した
世間話の重要さを学校で教えているらしい
のどかな女子高の昼休み
クラスメートとの廊下での歓談中、古典の先生が加わってこうおっしゃった
「どう、あなたのクラスには体毛をお持ちの方はいらっしゃる?」
一同、凍りついた
17才という身の上にはあまりにも酷な話題
しかもここは女子高だ
一人が驚愕しながらやっと答えた
「い・・・、いると思います!」
放課後、冷静になってふと気がついた
「あ・・・、たいもう=大望=AMBITION!!」
カナダで郵便局がストライキをおこした
ほんとうに手紙が届かなくなった
ストライキは2週間続いた
ストライキが終わって
届き始めた郵便物は最近の消印のものばかり
そこから序々に一週間前の消印のものが届き始めた
次の週にそれ以前のもの、そのまた次の週に…
あ、郵便物ひょっとして、ほんとうに山にしてほっといてた?
それで、上のほうから作業してる?
知り合いのユーゴスラビア人のレイラお姉ちゃん
ユーゴスラビアで産婦人科医の免許を持っていた
感謝祭の七面鳥をキッチンの台において
七面鳥のお腹につめものをして
針と糸で縫い合わせた
「こうやってこうやってこうやって縫うのよ、これで縫い跡は残らないの!完ぺきよ!完ぺき!」
と誇らしげに言っていた
キッチンで産婦人科医の華麗な指さばきを見たのは
後にも先にもあれっきり
何よりもありえないのは
彼女が結婚して移住したオーストラリアで
彼女の医師免許が通用しなかったこと
レイラお姉ちゃんは焦らず騒がず、気の遠くなるような道のりを選択した
今、オーストラリアの医学部1年生
友人にお江戸日本橋の呉服屋の娘がいる
呉服屋の娘は顔がちょっときれいだ
彼女とは共通の友人を介してトロントで知り合った
きれいで豪快な子というのが第一印象
彼女についていくと必ずおいしいものが食べられる
そしてその食べ物に関する単語量の豊富なこと!
食べものの単語だけは一度聞いたら
絶対忘れないと言っていた
彼女に食べ物のことを質問するとためらいなく答えが返ってくる
「リングイニって何?」
「幅広のスパゲッティのことよ」
「レリッシュって何?」
「きゅうりなんかの酢漬けのみじんぎり」
「リコリスって何?」
「甘草(カンゾウ)って薬草から作られたお菓子」
バクラバ、ツァツィキ、ガンブローニ・・・
彼女の知識は中近東からギリシャ、ユーゴスラビアと幅広かった
ご飯を一食抜いたら彼女に説教されたことがある
「いい?ご飯をおいしく食べられる回数は一日に3回
日本人女性の平均寿命をせいぜい80才として
私たちが80年の間に食べられる食事の回数は
3回×365日×80年で、ほんの限られた回数なのよ!
そのうちの1回でもみすみす機会を逃すなんて!」
人の食事のことなのに
自分のことのようにくやしがっていた
帰国してからも日本中に散らばった友人達が
連絡を取りあってお江戸に集まる
「今回はベトナム料理でお願い」というと
呉服屋の娘が広いお江戸の中から
店を手配して皆に連絡をつける
「中華料理」「タイ料理」「シュラスコ料理」
お題を与えられると
使命感に燃えて、皆が満足する店を探し出す
「あたしゃダテに給料全部
トイレに流してんじゃないのよ!」
と鼻息荒く口上する彼女は
お江戸日本橋のちゃきちゃき娘
今日もお江戸の空の下
「小腹(こばら)がへったなー」
と言っている彼女の独り言が聞こえるよう
トロントにいた時、チャイナタウンに行くのが好きだった
新鮮な野菜を買いに行くためと
アジアの匂いを嗅ぎに行くため
それから点心を食べに行くため
焼売や饅頭などの点心は食事と食事の間の軽食
これらの点心と一緒にお茶を飲むことを飲茶という
日曜の午後、何某飯店というところに点心を食べに行く
何十個もの湯気のたった蒸篭(せいろ)をカートにのせて
しわがれ声のおじいちゃんたちが点心の名前を連呼して
客席と客席の間を通り抜けていく
チャイナタウンはまさに中国そのもので
中国語以外の言語は通じない時が多かった
蒸篭を覗き込んで「これは中に何が入っているのですか?」
と英語で聞いてもおじいちゃんは
点心の名前を中国語でまくしたてるだけ
とにかくおいしそうだと思ったものを指で指して
湯気のたった蒸篭をどんどんテーブルに置いていってもらう
食べてみて初めて「豚だ」とわかるものもあれば
最後まで自分が何を食べたのかわからないものもあった
中国人は常に忙しそうだ
ポットに入ったジャスミンティーを飲みきってしまったら
蓋をはずして置いておくと、せかせかと店員がやってきてお湯を注いでくれる
この時握りこぶしを作ってテーブルをこんこんと2回叩く
「ありがとう」をこれで済ます
テーブルには正方形の薄いビニールクロスが何十枚もかけてある
客が席を立ったら店員が一番上のビニールを1枚めくって
食器ごと上に持ちあげる
小皿と茶碗とお箸がぶつかりあってものすごい音を立て
風呂敷包みにされて持ち去られる
3秒後、まっさらなビニールクロスのかかったきれいなテーブルが用意される
チャイナタウンの店先で、それぞれの店から聞こえてくる呼び込みの声
よく耳を凝らすと「ガオガオ」「ガオガオ」と言っている
通りを歩く人に「ガオガオ」
野菜や果物を籠に盛り合わせながら「ガオガオ」
ついに中国人の生徒に聞いてみた「ガオガオってなんていう意味?」
生徒はちょっと困惑して、微笑みながら答えてくれた
「ひょっとして、ガオホーガオのことですか?99セントってことですよ。」
次の日曜日のチャイナタウンで
私は茄子を一袋手に取って店員に差し出した
店員は無表情でレジを叩き、私に向かって「ガオガオ」と言った
おそるおそる1ドルコインを渡したら、1セントのお釣りがきた
「よっしゃあ!!」と心の中でガッツポーズをした瞬間
中国の空を広げるため、中国人は世界中でチャイナタウンを作る
中国でなくても構わないのだ
中国人が住んでいるところが中国の空の下
1991年から1992年にかけて
トロントで日本語を教えてる仕事をしていた
生徒はほんの少しのカナダ人と
財産ごと移り住んできた香港人、上海人、台湾人などだった
その中に混じってイタリア人、ユダヤ人、スウェーデン人などがいた
日本語を習う目的はほとんどがビジネス目的で
生徒のほとんどがビジネス専攻の大学生や
日本企業で働くビジネスマン
仕事で日本に行く人、日本人客を扱う人などだった
たまに
趣味でという人、日本の漫画を読みたいという人
動機が不明の人もいた
その中に、マイケルさんというホテルマンがいた
少数派のカナダ人
私が会ったカナダ人は皆
のんびりしていて、気が好く、親切だった
カナダ人でホテルマンのマイケルさんも
のんびりした人だった
入門篇の日本語の授業では
簡単な挨拶のしかたと動詞の活用から入る
動詞の種類を多く知れば
現在のことも過去のことも、話をするのは簡単になる
日本語で会話のやりとりをしながら
生徒さんの人となりを発見するのが好きだった
私:「マイケルさん きのうは何をしましたか?」(LEVEL 1)
マ:「わたしはきのうテニスをしました」
「それからビールを飲みました」
「それからテレビを見ました」
「それからカード(トランプ)をしました」(すべてLEVEL 1)
なんて絵に描いたようなのんびりした休日の過ごし方でしょうか
にこにこしながら話をするマイケルさん
カナダ人はっけーんの瞬間です
さぁ、次の質問をしてみましょう
本日のお題は「趣味を語る」です
私:「マイケルさんのしゅみは何ですか?」 (LEVEL 2)
マ:「わたしは」
私:「はい」
マ:「ジェイムズボーンド」
私:「?」
マ:「Memorabilia でぇす!」
入門篇の生徒は一様に
知らない日本語はとりあえず英語で言ってみて
「です」をつけてなんとかまとめる
"I collect James Bond Memorabilia."
とマイケルさんは言いたかったわけです
とにかく何でもかんでもジェームズボンドのものなら
集めてしまう蓄集家ということですね
とっても意外!
でもなんでジェームズボンド!
「どうしてですか」
と次の瞬間に聞いていた
マイケルさんは考えながら考えながら言葉を紡ぐ
マ:「子どものとき ジェイムズボーンドが すきでした」
「でも お金が ありませんでした」
「いまは 大人です」
「お金が ありますから」
のんびりとした日常を送りながら
お金を使ってジェームズボンドグッズを集めるマイケルさん
自分にとって価値のあるものを
自分の力で集めるということは
なんと素晴らしい自分自身の建築であることか
あの頃から
それに気づくようになった
カナダで日本語教師をしていた時
ジルさんという青白い顔の生徒がいた
職業は葬儀屋
髪は白に近い金色で腰まで届く長さだった
年は24歳で
その当時の私と同じ年だった
世の中にembalmingという技術があり
embalmerという職業があることを
トロントで初めて知った
様々な理由で亡くなった方の
体の血管から血液を抜き、そこに香油を注ぎ込む
葬儀まで、遺体が腐らなくてすむように
事故などで損傷の激しい遺体を
少しでも生前の状態に近づけるように施術する
ジルさんが仕事場で出会うのは
静かな静かなご遺体ばかり
彼女は
その物言わぬ人たちと向き合って
技術を施す職業の人だった
技術を施したご遺体は自分の作品となる
写真を撮り、ファイリングをする
ご遺体ごとに施す技術のレベルが異なる
TD=(Treatment of Dead)のレベルが1~4まで
1は人間の形をしている
4は人間の形をしていない
ご遺体が運ばれてくると
TDの判断をすることから始めるのだ、と語ってくれた
決して物静かな人ではなく
率直で激しい気性の人だった
「どうして」と聞いてみた
「どうしてこの職業につこうと思ったの」
うーん、と、金髪を一房くるくると指で弄びながら
薄い色の目でななめ上を見ながら答えてくれた
小さい頃から葬儀に興味があった
それがどんな文化でも
葬送の儀式は必ず存在する
人間には必ず死があり
国や文化が違えば、違う作法で葬られる
葬送には文化が凝縮されている
それにたまらなく興味があった
私が生きている間に
できる限り多くの文化の葬送をこの目で見たい
その人達が生きてきた文化を味わいたい
それが理由
と言っていた
1992年に日本の葬儀会社が
embalming の技術者を海外から誘致した
ジルさんが日本語を習っていたのは
技術者として日本で働くためだった
ホームレスはどんな大都市にもいる
北米で出会ったホームレスの人たちは
片手に紙コップを持って、ゆらゆら揺らしている人が多かった
小銭を集めるためのものである
そして
一人一人に持ち歌があるらしい
小銭を下さいなと言っているうちに
独自の節が自然に出来上がってきたのだろう
トロントの冬、家路を急ぐために
私は路上でストリートカーを待っていた
足元にはふくらはぎまでの雪
空からもひっきりなしに
雪は落ちてくる
夕暮れ時、空はほんのりと薄紫で
雪が音をすいとって市街地は静か
そこで
歌が聞こえてくるのだ
おじさんが紙コップをゆらゆらしながら
歌う
♪クォータ クォータ クォータ
♪ダーイィム
3拍おいて
♪ニッコー
♪イーブンナペーニウィルドゥー
クォータ(quarter)は25セント硬貨のことだ
ダイム(dime) は10セント
ニッコー(nickel) は 5セント
ペニー(penny) が 1セント
ようするにおじさんが一番欲しいのは
クオーター(25¢)で、ダイム(10¢)ニッコー(5¢)と続いて
Even a penny will do.(1¢でもいいんだけどさ)
という歌
おじさんの肩と頭に
雪が降り積もってた
私はポッケに入ってた小銭を全部
どさっとおじさんの紙コップにいれた
1ドルコインも入ってた
5秒後、振り返ると
おじさんの姿はもうなかった
あとで友達におこられた
「そんなのあげたって
どうせ酒代やタバコ代に消えていくのよ
無駄無駄!」
でもあの日
2~3回繰り返し歌われて
すっかり覚えてしまった
今でもしっかり歌える小銭歌
聞きたい方には歌ってあげられます
冬になると雪が見たくなる
完ぺきに厚着をしてブーツを履いて帽子をかぶって
あの極寒の世界を歩きたくなる
カナダのトロントで過ごした期間は1年と2ヶ月
ちょうどその半分の6ヶ月が冬だった
トロントの冬は長い
そして大量の雪が
住宅地にも市街地にも降り積もる
カナダの雪に傘は必要ない
水分をほとんど含まない雪の結晶が
空から降りてくるだけなので
ぽんぽんと服を叩けば、雪は体から離れていく
ただ、雪は毎日毎日振りつづけるので
除雪車が朝も晩もダウンタウンを往復する
そして雪の上から大量の塩を撒く
雪が一度溶けた時、地面で再び凍るのを防ぐそうだ
だから冬に履くブーツはすべて合成素材だった
塩だらけの雪の中を革のブーツで歩いたら
固く縮んですぐダメになってしまう
そしてトロントの冬は寒い
どのくらい寒いかというと
1月の平均気温が-35℃くらい
家から一歩外に出ると
鼻毛が凍りつくのがわかる
息と吸うと「ぱりり」と鼻の中で音がする
毎朝の「ぱりり」でその日の気温を測定する
朝に髪の毛を洗って
生乾きのまま外に出ると
予想に反して歩いている間に乾く
水分がすぐに凍って砕け散ってしまうから
そこにオンタリオ湖からの湖風が吹く
ウインド・チル(Wind Chill)と言って
体感温度はマイナス50℃くらいになるそうだ
バス停で友達が寒さに耐え切れず
よく不思議な踊りを踊っていた
ババンババンバンバンの踊りに似ていた
彼女は「ツラの皮って厚いんだねー」とつぶやいた
オンタリオ湖にも一面に氷が張る
トロントの南端にトロントアイランドという島がある
オンタリオ湖に浮ぶその小さな島まで
冬でも観光フェリーが往復する
ばきばきと氷を割りながらフェリーが進むのを
湖に面したビルの高い階から見ることができた
冬の黄色い日差しが湖の水面に反射して
静かであたたかい光景だった
春になってカナダに雨が降り始めると
April shower brings May flower
(4月の雨は5月の花を運んでくる)
という挨拶がとびかう
アザラシのように
皮下脂肪をたくさん蓄えて
氷がゆるむ春の到来を
今年もみんなが辛抱強く待っている